田舎坊主の読み聞かせ法話

田舎坊主 森田良恒

田舎坊主の読み聞かせ法話 田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです 和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。 人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。 read less
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田舎坊主の七転八倒<医は仁術ー七転八倒さえできない>
Hace 3 días
田舎坊主の七転八倒<医は仁術ー七転八倒さえできない>
平成27年1月28日、初不動の大祭を例年どおり開催しました。 その前日のこと餅まき用のお餅つきの際、私は腰に違和感を覚えました。もともと腰痛の持病はあったものの、いつもとは少し違う痛みなのです。しばらくたてば治るだろうと高をくくっていたのですが、痛みはだんだん強くなり、2月初旬に頼まれていたK町の公民館主催人権講演会には最強の鎮痛解熱剤と自分では思っているボルタレン錠を飲んで痛みを抑えお話しさせてもらいました。九十分間立ってお話しできるのか不安もありましたが無事講演を済ませることができました。 しかし腰の痛みはますます強くなり、2月中頃には車の運転もできなくなって妻の通院には義兄に運転をお願いしなければならないほどになっていました。 妻の通院から2日目、今度は右肩激痛のため右手が急にあがらなくなったのです。早速近くの整形外科でレントゲンを撮ってもらったところ、腰のすべり症と五十肩とのこと、リハビリを開始しました。ところがその2日後、左手中指の付け根の関節が異常に腫れ上がり、まるで左手甲にアンパンをのせたような状態になってしまいました。そしてその後まもなく今度は左手が全くあがらなくなったのです。その痛さたるや、両肩を引きちぎられるのではないかと思われるような痛みで、常に両手をお腹のあたり当てていることしかできないのです。この頃にはすでに食欲もなく、痛みのために寝ることもできず、椅子に座って寝る日が続きました。この間にも妻の介護はしなければなりません。 リハビリを2日続けて2日目の朝、私は39.2度の高熱を出したのです。娘にかかりつけの医院に連れて行ってもらい血液検査をした結果、即入院と言われました。しかし入院するには、まず妻の介護施設への入所を決めることや、私自身が関わっている保護司、患者会、難病相談窓口などへの多くの手続きを済ませなければなりません。私はとにかくあまりの激痛に早く入院したいと思っていましたが、手続きに丸一日かかってしまい、妻の入所を済ませた翌日、やっと公立N病院に入院することができました。 初診は内科で担当はN・T先生でした。来院後すぐ撮ったレントゲン写真を見ながら「多発性関節炎」と病名を教えていただきました。しかしその後念のためMRIとCTを撮りましょうということで、撮影後やっと入院室に案内されました。午前九時過ぎに来院して病室に入れたのは午後2時をまわっていました。 入院後痛み止めはボルタレンの徐放剤に代わりましたが、まったく鎮痛効果なく、あまりの痛さに「座薬がほしい」と、ついつい言っていました。もちろん夜は眠ることができず、翌朝6時の痛み止めの服用時間をまんじりともせずベッドの上で待っていました。   入院2日目の朝、N・T先生から呼び出しがかかり、正確な原因を調べる必要があるため造影剤を入れてもう一度CTを撮るというの話がありました。撮影後、すぐ説明があり私にもCT画像を見せてくれました。そしてN・T先生は病気の原因を確信したという表情で「腸腰筋膿瘍といってお腹の中の筋肉に七~九ミリ程度の膿のかたまりがあります。その菌が全身に回っていて関節に炎症を起こし高熱が出ています。治療法は抗生剤を約1~2ヶ月点滴投与するということになります。抗生剤の届きにくいところなので、じっくり治しましょう。」と話してくれました。 N・T先生は初診時、真剣な目元だけがみえるマスク姿だったのですが、CT画像の説明時にはマスクもなく、時折見せる笑顔は優しく、患者をこれほど安心させてくれる笑顔に、心から「治してもらえる、ありがたい」と思うことができた初めての経験でした。さらに若い女性の看護師さんから「絶対よくなるからね!」と力強く励ましてくれたことが、痛みを乗り越える大きな希望につながりました。 あとで調べてわかったことですが、「腸腰筋膿瘍」という病気はかなりの高齢者で免疫力が著しく低下した状態で発症することが多いそうですが、しかもその膿瘍ー膿のかたまりーは、手の拳一握りぐらいの大きさになって初めて発見されることが多いそうです。私の場合は10ミリにも及ばないきわめて小さな膿のかたまりであったため、同時にかかっている整形外科の専門医からも「よく見つけてもらえた」と私に話してくれるほどでした。 点滴がはじまって6日目の夜、施設で預かっていただいていた妻が救急入院すると連絡が入りました。急な施設入所といつもそばにいる私に連絡が取れず、私の病状もわからないため、状態が不安定となり、肺炎を併発したというのです。私は救急隊員に自分が入院している公立N病院に連れてきてほしいとお願いしましたが、当直医が内科ではなかったため結局他の病院に搬送されることになりました。 妻は私が当初危惧していたとおりの最悪の状態になってしまったのです。しかも妻の肺炎は重症であるため、救急で診ていただいた先生からは「延命措置をするかどうか明日の朝までに返事をください」と言われたと娘から連絡があり、その重症さが想像出来ました。妻は私の顔を見れば少しは精神的にも落ち着くのではないかと思うものの、私は痛みのため、妻に何もできないという思いが交錯し、さらに眠れない夜が続きました。 翌日、主治医のN・T先生に妻が救急で他院に入院したことを相談すると「奥さんの状態が落ち着いたらこちらの病院に転院させることもできるし、病室も空けておくから心配しないように。病院にある地域連携室にはその旨を話して対応してもらうので、大丈夫!大丈夫!」と私の痛い肩にそっと手を置いて優しい笑顔を浮かべ、快く他院に入院した妻の対応と私への励ましの言葉をいただくことができました。そのとき私は思わず熱いものがこみ上げてきて先生に心から手を合わせました。さらにそのあとすぐに看護師長が来てくれ「森田さん大丈夫よ、病室の手配もしたから安心して!」と、さらに私の不安を払拭させようと、病棟のスタッフが心を一つにしてくれていることが手にとるようにわかりました。 私の治療効果は順調にあらわれ、当初1~2ヶ月といわれた入院期間も3週間余りで点滴は終わり、その後は自宅で抗生剤の服用ということで退院のめどが立ってきたため、結局、妻は転院させることなく他院での治療に専念させることにしました。 それにしても、注意深く的確な診断を下していただき、他院に救急入院した妻のことまで親身になって考えていただいた先生に医師の本来の姿を見せていただきました。そして、約一ヶ月続いた激痛を乗り越える勇気をいただいた看護師長や若き女性看護師には「白衣の天使」という柔らかい言葉のニュワンスからは想像出来ない、患者の希望を引き出す強いパワーが存在するのだと確信しました。 私はかつて何度か若き医師や医学生に「医は仁術」とはどういうことか話す機会がありました。結論から言えば「仁術」とは相手(患者)に寄り添うことだということだと思います。この話をするとき、たとえに出すのは「仁」という漢字です。「仁」には慈愛ともいうべき「常に民に寄り添う」という意味があるのです。 長年の患者会活動や難病相談、さらに延べ十病院に及ぶ私の家族の入院経験で感じたことは、医師は「患者に寄り添う心」をまず養われなければならないということです。もちろん医師は医術に長けていなければならないでしょう。でも医師国家試験に通れば万能であるとは言い切れません。むしろ若い医師こそ多くの患者や家族の心に寄り添うことから治療がはじまることを胸に刻んでおいてほしいと思うのです。 私は七転八倒さえできない激痛のなか入院し、幸いにも身をもって医に仁術を具える医師に出会うことができました。私にまたいつか若い医師や医学生に話す機会が訪れることがあるなら、やはり「医は仁術なり」を話していきたいと強く思うのです。 合掌
田舎坊主の七転八倒<供養は食うよう>
26-09-2024
田舎坊主の七転八倒<供養は食うよう>
新彊ウイグル自治区が外国人に開放されてまもなく、中国西域シルクロードを旅行したときのことです。 タクラマカン砂漠のもっとも西方のカシュガルという町のはずれにあるイスラムのお墓に案内してもらいました。そこでまず目に入ってきたのは、背の高い木の棒の先に干からびた毛皮のような物が突き刺さっている、よくわからないものです。 私は通訳を通して、「これは何ですか?」と聞くと、「ここの墓に埋葬された人が、羊のおかげで今まで生きてこられてたので、これはその供養のために立ててあるのです」と教えてくれました。 そういえば、シルクロードに入ってから、いたるところで羊の群れに出会いました。オアシス以外、緑は決して豊かではないのに、羊が多いということは、羊が如何にたくましく人間と共存しているかがわかります。 羊は「歩く食料」であることはいうまでもなく、しかも年間雨量60ミリ、年間蒸発量3000ミリと言われる大乾燥大地のシルクロードでは、気温が下がる夜に羊の毛はなくてはならない衣料となり、昼間も人間を乾燥から守る大切な服にもなるのです。 また、羊の肉を食したあとの皮はほとんどが「ふいご」となり、カシュガルでは欠かすことのできない火起こし道具となっています。これがナイフや包丁などの鍛冶屋産業を生み支えているのです。 さらに羊の皮に空気を入れてふくらませたものは、羊皮(ヤンピー)船となって中国大黄河の橋のないところでは水上運送船として、人や物を運ぶのになくてはならない重要な役割を果たしています。 そういえば、昔は「羊」ヘンに「食」と書いていた「羊食」、今では「羊」がカンムリになった供養の「養(やしなう)」という字は、「羊を食べること」が養うことを意味していたのです。 旅行中、古老が、「羊は大地に吹き出した塩分と、わずかな草木の芽などを食べて生きられるのです。しかも多産で安産なのです。」とも教えてくれました。 胎児は羊水と羊膜に守られて、母の胎内で最高の栄養を与えられ、月満ちて出産となります。なぜ胎児の生命を育む体内臓器に「羊」の字が使われたのかはわかりませんが、シルクロードにおいては、古老のいうように羊は安産であり多産であること、そして羊の命を頂いて人間の生命は支えられてきたことが、決して無縁ではないように思うのです。 そしてシルクロードなどの羊文化圏では、人の年齢は「数え」でとらえられています。これは出産前の羊水・羊膜に守られた胎児の期間を加え、赤ちゃんが姿を現さないときから命と数えていたのでしょう。ちなみに、日本では今でも位牌に刻まれる亡くなった人の年齢や厄年の数え方に「数え」は残っていますが、つい最近まで「数え」の年齢をいう老人がいたものです。 * ウルムチのバザールでは羊の頭と腸を大きな鍋で煮込んだものがありました。この羊の煮物こそ「羊羹」だったのです。「羹」という字は「羊」を「火」で煮て、しかもその「羊」は「大」なるものという合成文字からできています。「羹」は、「あつもの」と読み、煮炊きしたもののことです。 私は七年間、高野山の宿坊で小坊主時代を過ごしましたが、その宿坊での精進料理の中に「旬羹(しゅんかん)」とよばれるものがありました。文字どおり季節の旬の食材を煮炊きした料理であります。日本の「羊羹」には動物性タンパクは全く含まれていませんが、たとえば羊の胃袋の中に乳を入れて生まれたチーズ文化が、やがて日本では豆腐などの大豆文化に変化したように、羊を煮たものが小豆を煮た、現在の羊羹に変化したのではないでしょうか。 羊文化は日本の漢字にも影響を与えており、「羊」の字がついた漢字は多くが「いい意味」を表しているのは、人間に豊かな恵みを与えた動物であったということが大きな理由と考えられます。「養」「羊羹」のほかにも「洋」「美」「鮮」「義」「善」「祥」「翔」「群」「詳」「着」などがあります。ちなみに、2015年は干支でいえば未(ひつじ)年でしたね。羊にちなみ、きっといい年になることでしょう。 * 自宅でお葬式を出していたころには、結集から職衆として招かれると告別式の前に食事をいただく習慣がありました。坊さんたちのお膳は別に用意され、賄いのお接待役も決まっていました。しかもこの接待役はいつもお酒が好きな人がなるようで、すすめ方が非常に堂に入っているというか、お上手なのです。そしていつも「供養は食うようやで」と、決まり文句を言うのです。飲んで食べないと供養にならない、と。ただし調子に乗っていると、大変なことになることがありますから・・・・。 葬式がはじまって・・・・お経を読む坊さんが、左右に大きく揺れています。とくに導師が揺れています。なかには居眠りをはじめる職衆も・・・。お経は酒臭く、波打って唱えられています。 あのときの故人は成仏してくれたのでしょうか。 合掌
田舎坊主の七転八倒<遠隔引導>
19-09-2024
田舎坊主の七転八倒<遠隔引導>
この田舎寺もご多分に漏れず檀家さんの数は減少傾向にあります。かつては全部で600戸近い檀家さんがありましたが、飯盛鉱山という銅鉱石を産出する銅山が1970年に閉山廃鉱になると、200戸以上がこの地を去っていったため、現在では380戸ぐらいに減少しています。 その後も多くの檀家さんが出ていかれましたが、そのうちの何軒かは今でも出檀家(でだんか)として法事やお盆のお参りなどはこの田舎寺と縁をもってつながっています。その理由は田舎から出て行っても同じ宗派のお寺が近くになかったり、やはり先祖代々お世話になったふるさとのお寺の坊さんにお参りなどはお願いしたいと思われている方も多いからでしょう。 もう一つの理由は、お墓がふるさとにあるということです。田舎を離れて行かれた方の中にはお住まいのところでお墓を求めることが困難な方も多くいるようなのです。近頃は「墓じまい」という言葉も出ているようですが、まだまだ田舎ではお墓がなければ「はかない」と、春秋の彼岸やお盆には多くの方がお参りをしてきれいにお祀りをされている姿が見られます。 このように縁をつないでいる出檀家さんは、橋本市から和歌山市までの紀ノ川筋や大阪府まであって、お盆には必ずお参りさせていただいています。 出檀家さんの法事は、ほとんどが田舎寺の本堂でつとめてもらうようにしているのですが、葬式に関してはどうしても家の近くのセレモニーホールなどへ行かなければなりません。お通夜や葬式については当然予定が立てられないため、その段取りはなかなか当家の意向に沿うことが難しいのが現実でもあります。 さてそんななか2014年2月14日、大阪の出檀家さんから葬儀の依頼が入りました。2月13日のお通夜は当家が希望している時間より一時間早めてもらいつとめることができました。しかし葬式当日は朝から思わぬ大雪となってしまったのです。 とにかく当日導師をつとめるため、辻和道副住職が自動車で出発したのですが、国道を5キロメートルほど進んだところから大渋滞で全く動けなくなり、副住職の携帯電話から「だめです。進みません」と連絡が入ります。 インターネットで調べてみると橋本市から大阪に抜ける紀見峠も全く動けません。すべての電車もバスも止まっているとのことなのです。葬儀場に電話を入れると、式場の前の道路も20センチ以上の積雪とのこと、参列者も多くの人が到着していないとのことでした。私は副住職に帰るように電話をし、式場関係者にある提案をしました。 それは本堂で引導作法をするようすをこちらからインターネットで送るので、式場のスピーカーで流すかパソコン画面に映し出してほしいというものでした。いわば遠隔で引導作法を送る遠隔引導の提案でした。 ちなみに私は年齢の割にはデジタル人間でして、パソコンがなければ仕事にならないくらいそこそこ使いこなしている方なのです。こんなときこそパソコンでネット中継だと思ったのです。しかし、式場の関係者からは、残念ながらパソコン画面はもちろんのこと、スピーカーにもつなげないとのこと、「案外不便だなあ」と感じながら、この提案は却下せざるを得ませんでした。生中継ができないとなれば、大阪の式場での予定時間に私が自坊の本堂で引導作法をし、読経や親族の焼香の時間を指定どおりにすすめるという2カ所同時進行の告別式しかないということになりました。さらに私が引導作法をしているようすを録画して、それをDVDにダビングし当家に郵送するということにしたのです。 このようにして大雪の日の、坊主になってはじめて経験した遠隔引導は無事終了することができたのでした そして副住職は、午前8時に出発し、いつもなら10分ぐらいで帰ってくるところをお寺に着いたのは、お昼ごろになっていました。お疲れさまです。 合掌
田舎坊主の七転八倒<読経の声が合わない>
12-09-2024
田舎坊主の七転八倒<読経の声が合わない>
仏教には声明(しょうみょう)というのがあります。 最近、高野山真言宗では「高野山声明の会」というのも結成されています。この会は本堂などのお堂で催される宗教行事だけではなく、さまざまな音楽ホールなどにおいてショーアップし公演されることも多くなりました。若いイケメンのお坊さんたちが法衣を着け、手にそれぞれ妙鉢(みょうはち:シンバルのような楽器)や散華(本来は花びらですが、絵柄の入った紙が多い)を入れた金色に輝くお盆などをもって、メロディーのついたお経を声を合わせてを唱えているのをご覧になった方も多いことと思います。 お坊さんのなり手が少ないなかで、このようなイベントが幅広く行われ、人材発掘の大きな契機ともなっているのです。ちなみに平成27年は弘法大師が高野山を開創して1200年になります。この大きな行事を前に全国で多彩な「お待ち受け法要」というものが開催されていますが、そのなかでもこの声明公演はひときわ人々の心を引きつけているように思います。その理由はおおぜいの僧侶のきらびやかな法衣衣装であり、厳かなたたずまいや厳粛な作法であり、ライトアップの舞台演出等々であることはいうまでもありません。 しかし最も大きな理由は、僧侶たちの声明がかもし出すハーモニーやメロディーであり、鉢や銅鑼、鐘などの音色ではないでしょうか。 私が平成63年3月、高野山密教遺跡研究会に同行させていただきシルクロードを旅行したとき、多くの石窟寺院を見ることができました。もともとシルクロードはイスラムが侵攻してくるまでは仏教の聖地でもありました。しかし現在残っている遺跡はほとんどが破壊されていて、石窟寺院のなかにはわずかに当時の壁画などを見ることができる程度です。私が最も感動したのは新疆ウイグル自治区の西端に近いクチャというオアシスの町にある「キジル千仏洞」に残された「五絃琵琶」の壁画です。この五絃琵琶がやがて日本に伝わり、現在では日本の超一級の国宝として正倉院に保存されているのはよく知られています。 この石窟にはほかにもたくさんの楽器を持った伎楽天が描かれています。仏教華やかなりしころ、仏をたたえ仏に感謝することを、人々は多くの楽器を使った音楽によって表現したことが実感されるのです。そして町やバザールに行けば、タンバリンやギター、三味線などの原型と思われるような楽器がところせましと売られています。 私の家にはそのときに買ってきたラワープという弦楽器と小さな太鼓、ホータンの河原で拾った玉石と1000年ほど前(?)の茶碗のかけらが今でも大切に部屋に飾ってあります。 現在、聞くことができる声明は日本の原音楽である浄瑠璃や謡曲、義太夫、長唄ひいては民謡などの元となったものであるといわれています。よく「ろれつ(呂律)が回らない」と言います。この呂律(りょりつ)は本来音楽の調子のことです。声明は基本的には呂・律・中の三曲と、五音とよばれる宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)、つまり段々に音が高くなる、ドレミのような五音階でできています。この呂と律を取って言葉の調子がわるいことを「ろれつ(呂律)が回らない」といったのです。 さて、今から35年ほど前には、お葬式の職衆として声がかかると、ほかの職衆がだれなのか大いに気になったものです。3人葬式の場合、導師がいて脇に職衆が2人座ることになります。式中、導師は小さな声で引導作法をするため職衆2人が声を合わせて唱えなければなりません。この声が不揃いになると、ありがたみというか厳かさというものがなくなってしまいます。そのためお唱えする調子の高さやリズムなどをきれいに合わせることが必要となり、最も神経を使うところでもあります。 ところがなかには呂律のまわりがわるい高齢のお坊さんもいて、その方と職衆が一緒になると合わせるのに大変苦労するのです。お経の息を継ぐところもお互いに違うところですれば、途切れることもなく聞こえるのですが、こちらが止まればあちらも止まるということがあるのです。そうなると次の出だしは息をした分だけ飛ばすのか、それとも切ったところから唱え出すのか、そんなときの打ち合わせなんかしたことがありません。そしてやっぱり出だしが合わないのです。一生懸命唱えながら聞き耳を立て、呂律のまわりがわるい相手の方に合わそうとするのですが、だんだん拝んでいるお経の場所がわからなくなる始末です。もう冷や汗ものです。 お経の終盤には声明が入ります。ここでは一番若手の私が声明の頭(とう:出だし)をとります。自分の一番出しやすい高さで唱えることができるため、安心して頭を出すことができます。ところが一緒に唱えるところになると、また呂律のまわりがわるいのです。わたしは相手の職衆には申し訳ないのですが、それを押し消すようにさらに大きな声でお唱えしなければなりません。失礼とは思いながら、先輩僧侶をさしおいてきれいなお経にしようと思うのは、なんとしても亡くなった方が安心してあの世にいってもらえるよう、そしてご親族や参列者の方々を不安にさせないようにするためで、精一杯お唱えするのでした。 合掌
田舎坊主の七転八倒<老僧の悲哀>
05-09-2024
田舎坊主の七転八倒<老僧の悲哀>
いまお寺では後継者不足が深刻な問題となっています。 その主な理由は、子どもが親の働く姿を見ていて継ぎたいと思えるような仕事ではないこと。現金収入とはいいながら子どもを育て独り立ちさせるまでの教育費などを考えると、安定した十分な生活資金が入ってくるとは考えられないこと、などがあげられます。もっと具体的に言えば、急激な檀家の減少、直葬や家族葬とよばれるようなお葬式の小規模化、宗派本山への負担金の高騰、法衣などの新調費や寺の維持管理費、嫁さんの来手がない、などです。 一方では住職の生活さえままならない田舎の檀家寺があります。他方では裕福な観光寺や信者寺などが数多くあります。 いまの日本は格差社会が広がっているともいわれていますが、私ども坊主業界もかなり格差がはげしいのではないかとも思っています。そんな田舎寺なのに「坊主丸もうけ」と思われているのですから、やはり現実とかけ離れた生活を強いられる寺の跡継ぎが好まれないのは当然なのかもしれません。 お寺の跡継ぎがいないということは、あるときにはきびしい現実を目にすることがあります。お寺には「結集」とよばれる互助組織があり、これは住職が病気になったときなどには他のお寺の僧侶がお互いに法事やお葬式などで手伝い合う組織であります。もちろん病気などにならなくてもお葬式の職衆(しきしゅう:導師以外の役僧)などには招かれることがあり、招かれたら次はこちらが職衆としてお願いをします。収入の少ない田舎寺ではこれがご互いに経済的にも助け合う仕組みになっているのです。 私が27歳ころのことですが、紀ノ川をはさんだ山の懐に、いつも職衆として呼ばれていた小さなお寺がありました。そのお寺は老僧が一人で寺を護っていました。奥さまを早くに亡くし、寺の跡取りと考えていた息子は町に出て所帯をもち、むしろ息子の方から縁を切るような形で出ていってしまったそうです。 お寺はほとんどの場合、住職が高齢になると後継者を自分で準備するのですが、息子以外でお願いするとなると、生活のことをまず考えなければなりません。しかし生活を保障できるだけの収入もなく、ましてや檀家もそこまで熱心に考えてくれる人もあまりいないのが実情でもあります。 老僧の年齢はその時80歳を超えていましたが、田舎では住職がいくつになっても必要な存在です。檀家総代が集まって後住(ごじゅう:次の住職)としてお寺に来てくれる人を探すなどしたものの、年に数回しかないお葬式とそれに付随する法事、お盆の棚経だけの収入ではなかなか来てくれる人は見つかりません。お葬式に職衆として行くと老僧は足も悪くなり、なんとか座敷では歩けるものの、田んぼのあぜ道などを行く野辺の送りの葬列は難しく、導師である老僧は、セメントなどを運ぶ工事用の一輪車に乗せられていました。 必要とはいえそこまでして坊主は働かなければならないのかと。同行していて哀れというか、悲しくさえなった思い出があります。 私自身、娘が2人で、しかし下の娘を早くに亡くしたため、1人娘になりました。その娘は大学を出てから介護ヘルパーとして働きだしたので、やがて私が年老いたら寺を継ぐものがなくなるのは目に見えていました。私の脳裏には一輪車に乗せられた老僧の姿が、やがて自分の姿と重なるようになってきました。 そこで、私は新しい住職が来てもらいやすいように、そしてせめてこの寺に住んでもらえるようにと、平成十三年、築二百九十年の庫裡の改修を檀家総代に申し出、理解を得てなんとか人が住めるように直していただきました。 2年後のことです。ヘルパーとして介護老人保健施設で働いていた娘が突然、「私、高野山の尼僧学院に入る」と、言ってくれたのです。尼僧学院の入学式の日、師僧を代表して私が挨拶することになりました。そのときの私は、緑たけなす黒髪を剃りおとし出家した5人の比丘尼の前で、ただただ涙が出て言葉にならなかったことを今でも忘れることができません。 そして娘が尼僧となってから11年たちました。在家に嫁いだものの、なんとその娘の旦那さんである辻和道師もつらい修行を成満し、いまこの田舎寺の副住職として、寺務に励んでくれています。本当にありがたいことです。 おかげさまで、私は一輪車に乗せられることはなさそうですが、無常の風が吹けば、いつかは乗り心地のいい霊柩車には乗せられることでしょう。 合掌
田舎坊主の七転八倒<山行きが帰ってこない>
29-08-2024
田舎坊主の七転八倒<山行きが帰ってこない>
私のいる村は旧高野街道の高野七口とよばれるうちの一つで、大門にいたる紀ノ川の入り口に当たり、「大門四里」の石標も残っています。 当地は重要な宿場町で、大和街道と高野街道の分岐点にあたり、昭和36年頃まで、川の近くにある茶屋町とよばれるところでは市も開かれ、高野参りの巡礼者たちは、旅館や茶店、薬屋で必要な品を買い求め、大門へと向かったのです。この茶屋町を過ぎれば峠までは急坂が続きます。この坂道に沿うように民家はもちろんのこと、お墓もそれぞれの家が自分の畑の近くに建ててます。そんな場所にあるお墓でも、昔は土葬でした。 急坂にあるお墓といえば、こんなことがありました。 お葬式の知らせが入ったお家は地区の一番下の谷沿いにあり、埋葬するお墓は高野山を望める峠とおなじくらいの高さのところにあります。その家とお墓までは標高差でいえば300メートルぐらいはあるでしょうか。そこまで町内会の人が棺をかついでのぼるのです。下に落としてしまわないように棺に2本のロープをかけ上からひっぱりながら男4人ぐらいでかつぎます。途中で何度も休憩し、男たちは場所を入れ替わりながら峠近くの埋葬墓地までかつぎ上げるのです。 何も持たず葬列につく参列者でさえ、何度も休みつつ息も絶え絶えのぼるくらいですから、棺をかつぐ男たちのしんどさはいうまでもありません。峠のお墓についたころにはだれもが精も根も尽き果てているようすでへたり込んでいました。 あの時、私の父親もかなりの年齢になっていたので、導師である父親のおしりを私が押しながら山(お墓)へ行ったことは忘れることができない思い出であります。 山側のあるお家でお葬式が行われたときのことです。 出棺の時間になっても埋葬のためにお墓に穴を掘る「山行き」役が、なかなか帰ってこないのです。普通なら出棺までに掘り終えるのですが、まだ掘れないというのです。当家に指示された墓の場所から岩盤が出たからです。少なくとも棺より一回り大きく、深さは百六十センチも掘る必要があるので、一メートル足らず掘り進んだところで大きな岩盤が現れたと言うのです。 「山行き」は2人だけなので、人力だけで岩盤を割るのはとても無理だということで、発破をしかけることになりました。お墓に発破をしかけて掘るというのは、この土地でもはじめてのことでした。数回の発破で岩盤はなんとか砕くことができたのですが、今度は砕かれた石を出すのが大変です。2人で同時に穴に入ることができないため一人ずつ交代で石を掘りあげなければなりませんでした。また、穴は掘れても、棺を納めたあと掘りあげた砕石を埋め戻すわけにはいきません。土葬ですから当然埋葬は土でなければなりません。そのため今度は墓地内の違う場所から土を持ってこなければならなくなりました。しかも、いま掘っている場所は坂になっているものですから、あまり効率よく作業が進みません。二人の山行きさんにとってみれば、出棺が2時からなのにすでに3時間を経過し、夕暮れ近くになっており、まさに時間との戦いでした。そして結局、埋葬できたのが5時半を過ぎていたのです。 このときほどこの田舎にも早く火葬の時代が来てくれないものかと、切実に思ったことはありませんでした。 合掌
田舎坊主の七転八倒<坊主も山行きするんです>
22-08-2024
田舎坊主の七転八倒<坊主も山行きするんです>
私が葬式で導師をつとめるようになってまもなくのころのおはなしです。 現在のようなセレモシーホールなどで通夜、葬式をつとめ、出棺は自動車で火葬場へ行くというものに比べれば、昔はかなり丁寧な葬送の儀式であったように思います。 私のいた村では平成5年ころまで、葬式はすべて自宅で行われていました。そして「野辺の送り」でそれぞれ役割の仏具を持ち、葬列を組んで墓地までいくのです。 その前には、「山行き」とよばれる墓の穴を掘る役の人が町内会から当番で選ばれ、彼らが朝早くから掘った幅60センチ、長さ200センチ、深さ160センチの埋葬地で土葬前の供養をつとめるというのが普通のお葬式の形でした。 かつての野辺の送りには、命の限りや生き方などを見つめさせる深い意味がありました。 出棺する少し前から一番鐘、二番鐘、三番鐘と大きな鉦鼓が当家の玄関先で鳴らされます。遠くにいる人たちにも、もうすぐ出棺が近いことを知らせるのです。そのあと最後の別れを済ませたあと生前使用していた茶碗が割られ、もうここでは食事をする場所がないことを死者に知らせます。 そして最後に棺を庭に出して右回りに三回まわり、この家にはもう戻れないことを死者に悟らせるのです。葬列には先ほどの鉦鼓のほかに大きな銅鑼も鳴らし、故人の葬送を地区の人たち全員に知らせます。高く掲げられた四本幡には「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」と書かれていて、「すべての存在は無常で移り変わるものです。そのことがわかれば苦を超えた平安が得られます」と教えています。 この野辺の送りは故人のためだけのセレモニーではなかったのです。 いま元気に畑で農作業をしている人々にも多くのメッセージを送っているのです。 今日亡くなったのはあの人でも、あすはあなたが棺に入るかもしれないのですよ、と無常を悟らせ、いま元気に働けることを感謝しながら一日一日を大事に生きることを気づかせてくれるのです。  けんかしたままの人はいませんか? お礼を言えていない人はいませんか? 受けたご恩にお返しはしましたか? 今できることは今しておきましょう、と。 私たちは急に命を落とすという現実を毎日のようにニュースなどで接しているにもかかわらず、なかなか自分のこととは思えないものです。そんなとき、この野辺の送りが教えてくれているのは、命の限りであり生き方ではないでしょうか。 ちなみに私も「山行き」の役をつとめたことがあります。 町内会の順番とあって当然のつきあいとして役をいただいたのですが、坊主が墓の穴掘りをするという絵面はあまり見せられたものではありません。山行き当番は二人で、朝早くからその当家の墓地へ行き、喪主から埋葬場所を指示してもらったあと穴を掘ります。棺より一回り大きい穴を掘るため相当時間がかかりますが、もちろん葬式が始まるまでには掘り終わらなければなりません。休憩所では山行きさん用に風呂が沸かされ、穴掘りが終わると、入浴というか沐浴をすることができ、あとは埋葬まで休むことができます。 しかし、私は引導を渡す導師でもあります。風呂に入るやいなや法衣に着替え葬式をしなければなりません。野辺の送りを済ませ、土葬前の供養が終わると今度はすぐさま葬列の方々の前で法衣を脱ぎ捨て作業着に着替えます。下駄を放り投げ長靴に履き替え、数珠をスコップに持ち替えて棺を埋めなければならないわけです。このようすを見ていた参列者のひとりの「坊さんに山行きさせたらあかんでえ」という言葉を聞いたのは、私ひとりではなかったようです。 その後、田舎坊主に山行きの役が回ってくることはありませんでした。 いまは野辺の送りも土葬という風習もなくなってしまいました。唯一、残っているのは、出棺時、かつての三番鐘の代わりとして鳴らされる霊柩車のクラクションと、半紙に包まれたお茶碗を割ることぐらいではないでしょうか。 合掌
田舎坊主の七転八倒<細工をしないで>
15-08-2024
田舎坊主の七転八倒<細工をしないで>
坊主はお布施で生活しています。 正確にいうと、私の場合、お布施という資金を宗教法人不動寺という会社が布施収入としてプールし、その会社から人件費として坊主に支払われます。もちろん収入が人件費を上回っていれば問題はないのですが、ときどき毎月の人件費支払額に満たない場合もあります。法人の貯えが相当あれば当然それでまかなわれることになるのですが、なかなかそううまくはいかないのが現実なのです。それでも毎月、源泉徴収をし、12月末には年末調整をし、税務署や役所に報告しなければなりません。 つまり実際には決めた月給の半分もいただいてない、というかお布施が少なくて払えないときでも、決めた額で記帳し申告するのです。 また、本来ならボーナスもいただきたいところですが、いまだかつていただいたことがありません。これはまさに零細企業そのものです。 檀家さんでも私たち坊主が月給取りで、源泉徴収事務をし、年末調整のうえ税務署などに申告していることを知っている人はほとんどいません。「坊主丸もうけ」と思っているのです。 本来、古来インドや上座部仏教の地域では僧侶は生産活動をしないため、庶民や信者などから直接食べ物やお金を布施としていただいて命の糧としていたのです。 布施をする人にとってみれば、人々の幸せを祈り、豊作を祈願し、そのために日々修行してくれる僧侶に、食べ物や金銭を施すことはなによりの功徳であり、供養であると考えていたのでしょう。 庶民は土に種をまき、作物を収穫し、その作物やそれを売ったお金を僧侶に布施するのです。僧侶は布施をもとに生命をたもち、修行して得られた智恵や祈りの種を庶民の心にまくのです。布施という行為は、お互いに提供しあうのであって、決して一方的に与えたり与えられたりするものではないのです。 布施という言葉はサンスクリット語の「ダーナdâna」が語源といわれています。「ダーナ」とは、「提供する」とか「喜んで捨てる」という意味があります。「ダーナ」は中国から日本に伝わるとき「檀那」と漢訳されました。ですから、布施する家は「檀家」となり、布施される寺が「檀那寺」となるのです。「うちの旦那さん」の旦那もおなじく「檀那」で、家族にお金やものを提供する人という意味があります。 「ダーナ」が英語圏に伝わって「ドナーdonor」となります。移植医療では臓器などを提供する人のことを「ドナー」とよぶのはよく知られたことです。もちろん「ダーナ」が語源なのですから、提供するかぎり喜んで捨てるこころが大切なのはいうまでもありません。 ちなみに2002年4月、衆議院議員の河野太郎氏がドナーとなり元衆議院議員の父河野洋平氏が「生体肝移植手術」を受けたことを覚えている方も多いことと思いますが、この手術で息子さんの肝臓の一部を提供された河野洋平氏はいまも元気で活躍されています。この「生体肝移植手術」という方法が日本ではじめて実施されたとき私ははじめてドナーという言葉を知りました。 それは1989年11月に島根医大で日本初、世界で四例目という「生体肝移植手術」が行われたときのことです。 このときの患者は、胆道閉鎖症という病気で余命いくばくもなく肝臓移植しか救われるすべのないYちゃんという小さな子どもで、ドナーはこの子のお父さんでした。この手術に踏み切った当時の執刀医永末教授は、「肝硬変で余命いくばくもないわが子を前にして、自分の肝臓を切ってでも助けたいという父親の心中を聞いたとき、主治医としてはこれしか方法はないと確信した」と、述懐しています。 「ダーナ」の精神で提供され実施されたこの手術は、現在では5千例を超え、一般的な治療となって多くの患者の命を救っているのです。まさに喜んで捨てる行為が移植医療を支えていると言っても過言ではないのです。 この田舎寺には毎年8月9日、お盆の前に行われるお施餓鬼という行事があります。 そのときのお布施について少しご紹介します。 ご自分のご先祖だけではなく、餓鬼道という地獄に落ちている縁故なき精霊にも水を手向け供養するのがお施餓鬼供養です。 このときのお布施は毎年いろいろ手の込んだものが現れます。一番多いのはお札に見せかけた細工です。これはいかにもお札が包まれているように見せかけようとするものだと思われます。一つは百円硬貨を五つ、紙の上にならべ、その上からセロハンテープでとめ、それをお札を四つ折りにしたぐらいの幅に半紙で包むのです。これは一見お札のように見えますが、少し長めなのでわかりやすい細工になります。しかし、百円硬貨はまだいい方で、これがお賽銭ならわかるのですが10円硬貨の5枚セットの場合にはちょっと悲しくなります。 二つめは千円札を三つ折りにしたぐらいの大きさに切った厚紙に5百円硬貨をセロハンテープで貼り付け、これを半紙で包むのです。次は1000円札以上に見せかけた細工です。これは現在、硬貨に代わっているお金を、わざわざ旧紙幣を使うというものです。今ではほとんど出回っていないため、包みを触っただけでは1000円札と思います。しかしあけてみると百円札だったり、五百円札だったりします。「わあー、めずらしい」と、思うのもつかの間、「わざわざこのときのために保存しておかなくても・・・・」お盆の経木代として普通のお布施では興がないと考えられているようで、少し複雑な気持ちになります。 いずれにしてもお布施ですから、喜んでいただかなければならないのですが、はたしてご先祖の供養のためにと思い包んでいるとは思えず、どこか悲しくなるのです。 なかには何も入っていないものもあります。多分入れ忘れたのでしょう。これは法事の際にもありますが、「ほんとうに気持ちだけです」とか「紙だけです」といわれることもありますので、こちらから「入ってませんでした」といったことは一度もありません。 願わくばお布施は喜んで捨てるきもちで・・・。それもできるだけ多く・・・。布施の「施」は「ほどこす」と読むんです。 ほどを超すほど、いいんです・・・。 合掌
田舎坊主の七転八倒<お爺さんの珍接待>
08-08-2024
田舎坊主の七転八倒<お爺さんの珍接待>
田舎坊主の七転八倒<お爺さんの珍接待> 田舎寺の檀家さんも高齢化が急速に進んでいます。 後を継いでもらいたい息子たちはきつい労働を強いられる割には収入の少ない農業を嫌い、町に出て就職、結婚し、家を建て、あらたな家庭を持って田舎に帰ってくることはなくなりました。娘さんたちも大学を出て就職し、サラリーマンと結婚し、これもあらたな生活を町で始めるようになっています。 田舎に帰ってくるのはお盆と正月、といいたいところですがそれさえも帰らない子どもたちが増えているのです。 お盆であれ正月であれ、自分の家庭が一番なのでしょう。せっかくの休みですから、家族旅行などが優先され、田舎に足を向けることはほとんどなくなってしまいました。ましてや今は田舎に帰って親の顔を見なくても、湯沸かしポットをインターネットにつないでおけば、親がそのポットを使わなければスマートホンがそのことを知らせてくれるのですから、安心して「放っておける」時代なのです。 田舎に残るのが老人ばかりになるのは当然のことかもしれませんが、それにしても寂しい時代になってきていることは、こういった現実が教えてくれています。 私は35歳の時から地域の公民館長を10年ほどつとめていました。今この公民館ではボランティアさんが中心となって、80歳以上の方の食事会を恒例で開催しています。この村の戸数は300戸あまりですが、食事会に参加する80歳以上の方は100人にものぼり、いかに高齢者が多いか驚くばかりです。 暑いお盆のことです。 平成16年までは私ひとりで約400軒の檀家さんをお参りしていました。お盆のうちでも多い日は一日に100軒お参りしなければなりません。単純計算で一軒6分お参り時間がかかるとすれば100軒で600分ですから10時間必要だということになります。これに移動時間を含めると11~12時間ということになります。この日は朝食もお昼ご飯も抜き、トイレも最大限我慢です。 8月の暑いさなかでも水分は最小限に抑え、20軒で一度お茶をいただく程度にしています。申し訳ないのですがお盆はあくまでも軒数をこなすことを優先しなければなりません。 ある棚経でのこと、おじいさんひとり住まいのおうちでお茶をいただくつもりでお参りを済ませたところで丁度よく冷たい乳酸菌飲料を出してくれたました。 コップの中の白い液体の表面には氷のような少し黒いものが浮かんでいます。白い液体に氷を浮かべれば少し陰のように黒みがかって見える、まさにその氷だと思ったのです。のども渇いているのでまず氷を「つるっ」と飲み込みました。・・・・が、どうも柔らかいのです。それはしばらくしてチュルンとのどを通り過ぎました。そのあとすぐ液体の方を飲みかけたとき「これ原液やっ!、うすめてないがな・・・」と気がつきました。 そして先ほど飲み込んだものを、よおーく思い出してみました。あの少し黒みがかった色、のどをとおった感じ・・・・・・、「あれ、ナメクジや」 たぶん、開けたままのその飲み物の瓶の口からナメクジさんが侵入していたのでしょう。 結局、原液ままの飲み物とナメクジではのどを潤すことはできませんでした。というより早くうがいをしたい気持ちになったのは言うまでもありません。 しかし、暑い中お参りしてくれてるからと、冷たい飲み物を接待しようと思ってくれたおじいちゃんの温かい気持ちは、なによりも有りがたくいただくことができました。 お盆になると、このときのナメクジ入りの飲み物の味を思い出すとともに、老人ひとり住まいのわびしさのようなものをいまだに忘れることができません。 合掌
田舎坊主の七転八倒<お盆は暑いものです>
01-08-2024
田舎坊主の七転八倒<お盆は暑いものです>
当田舎寺ではお盆になると、出檀家さんを含めて約四百軒お参りします。 これを棚経というのですが、昔は各家でご先祖さまを迎えてお祀りするための棚をつくり、そこにご先祖さまが帰ってくるための乗り物として、茄子などの野菜と割り箸で動物を形づくりお祀りしたものです。 お盆にはこの前でお経をあげることから棚経といわれるようになりました。 8月10日から14日まで私ひとりでお参りしていたころには、一日に100軒、午前5時から夕方5時頃までかかる日もありました。 一軒あたりの読経時間はせいぜい7~8分ぐらいですが、とにかく数をこなしてお参りを済ませる必要があるため、ゆっくり悠長にロウソクやお線香をつけたりすることはできません。 玄関から挨拶しながら仏間まで一気に上がり込みます。 家に入っていいか、座敷に上がっていいか返事を待ってる暇はありません。幸いお参りする日は決まっていますので玄関は開いています。お家の人がいようがいまいが、とにかく上がって仏壇の前に座ります。座るやいなやリンを2回鳴らし、読経をはじめるのです。それからロウソクやお線香に火をつけお供えします。もちろんお経を拝みながらです。 お経が終われば、すでに準備してくれているお布施をいただいて、挨拶をしながら帰り、次の家に行きます。 もし、その当家の方がお留守の場合でも、お経はあげてから帰ります。そうしないと戻ってきてお参りしなおすというようなことになり、大変な時間のロスになるからです。 そんな日は朝食も昼食も抜きです。もちろん途中でトイレをしたくなることもありますが、できるだけ我慢をします。 それは衣を着てのトイレは不便だから。田舎とはいえ、坊主が法衣を着て畑で用を足している姿はあまり行儀のよいものではありません。その家のトイレを借りればいいように思いますが、昔のこと、古風なトイレなものですから、法衣を着ていることを考えるとなかなか借りる勇気がでないのです。 この辺のことは檀家さんもよく知ってくれていて、あえてお茶をすすめるようなことはしないように気遣ってくれていました。 さて、お茶はいいのですが、夏真っ盛りのため暑さにだけは少し気を配ってほしいと思うのです。 しかし田舎の家のこと、エアコンが居間にあればいい方で、仏間にエアコンがあるところはほとんどありません。 うちわは置いてくれているところは多いのですが、坊主が自分で扇ぎながらお経を拝むのもだらけているようでできません。 たまには気のきいた奥さんがうちわで扇いでくれますが、読経があまりにも短時間のため、うちわを用意している間に終わっていることもたびたびです。 扇風機も置いてくれているところは多いのですが、さて当家の人がうしろで扇風機をつけたとたん、「ロウソクが消えたわ、扇風機あかんなあ」と、いってスイッチを切ってしまうのです。私は心の中で「ロウソクはわしが帰ってからいつでも立てられるから、扇風機つけといてえな」と、思うのです。 扇風機を止められると、あとはよけいに暑いのです。  お盆の棚経での暑さ対策、なんとかなりませんでしょうか? 合掌
田舎坊主の七転八倒<法事での募金箱>
25-07-2024
田舎坊主の七転八倒<法事での募金箱>
2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。 テレビの情報番組が特別番組に切り替わり、東北地方で発生した大地震による未曾有の大津波を生中継する画面に私は釘付けになりました。 みるみるうちに濁流が滑走路に進入し、車も飛行機も押し流され、空港ターミナルが浸水していく仙台空港をテレビは映しだしていました。その瞬間、胆道閉鎖症という難病のわが子を助けたいとの一心で、昭和六十年はじめて飛行機に乗って降り立ったのが仙台空港だったという記憶が私の頭をよぎりました。 一年半入院し、お世話になった仙台のため、東北のために、何かしなければという思いが沸々とわき上がってきたのです。 地震発生から4日目の3月15日、私は銀行からほとんど全財産といえる1000万円をおろし、その足で地元の紀の川市に「大震災で困っている方に使って下さい」と寄付を申し出ました。 このとき、紀の川市ではまだ募金の窓口はできていなかったので保留となり、その後、市長さんから「紀の川市の名前でいろいろな方からの募金として合算して報告するにはあまりにも高額なので、あなたの名前で日本赤十字和歌山支部に持っていってもいいですか?」と電話があり、すべてをお任せすることにしました。 それからというもの、テレビでは連日、すべてのメディアが大震災の報道に切り替わりました。 それは大地震と巨大津波が東北の人たちから全てを根こそぎ奪っていったことを伝えていました。 家であり仕事でありふるさとであり家族であり、今まで努力の成果として得てきたもの全てをです。 命からがら助かった人は文字どおり「着の身着のまま」で、残ったのは命だけという人がほとんどでした。 しかし、まさに絶望の淵になんとか踏みとどまった人たちの口から出る言葉は「命があっただけで、しあわせです」という言葉です。 さらに避難所で家族が見つかった時、「生きててよかった。それだけで充分です」という人もいました。 たった一杯の温かい飲み物や食べ物が差し入れられれば「本当にありがたいです」と話しているのです。 そして「まだ見つからない人も多いなかで、これ以上のことは贅沢です」とも話されるのです。 避難所などにいる被災者から聞こえてくるのは「感謝です」「ありがたいです」という言葉であふれているのです。 ある避難所のなかにいた中学一年生くらいの女の子が「今までどれだけしあわせだったか、はじめて気がつきました」と話していたことが、私の脳裏から離れないのです。 私はそれから後の法事の際には、「毎日のお味噌汁に文句を言ってませんか?」「温かいご飯に感謝しているでしょうか?」「今がどんなに幸せか、感じていますか?」などの話をし、手づくりの募金箱をまわしながら法事に集まった皆さんに募金を呼びかけるようにしたのです。 私が個人的に寄付したことを新聞などで知っている方も多かったため、多くの方は快く募金してくださいました。 なかには何回も募金箱に寄付して下さる方もあり、感謝の気持ちでいっぱいになることも・・・・。 そして小さな子どもさんまでもが、にぎりしめた50円玉、100円玉を募金箱に入れようとしてくれるとき、私が「お菓子を買えなくなるよ」と話しても、「いいよ」と言って募金してくれる姿には胸が熱くなりました。   この募金活動は2年続き、70万円を超える額の浄財が被災地に届けられたのです。 合掌
田舎坊主の七転八倒<お経テープの使い方>
18-07-2024
田舎坊主の七転八倒<お経テープの使い方>
法事で「仏前勤行次第」を差し上げるようになってからしばらくしてのことです。 ある檀家さんから、「お経のリズムや息を継ぐ場所がわからんので、テープに録音したのがほしいんだが・・・・」と言われました。 お経は確かにリズムや区切る場所など決められたものもありますが、ほとんどの場合あまり気にせず自分の唱えやすいように唱えればいいと私は思っています。 なかには耳なれたフレーズがお経の唱えやすさ、覚えやすさにつながっている場合もあります。 それはそれでとてもいいことで、意味や内容を考慮しなくても充分功徳があると思うのです。 ある研究者がお経を唱えている人の脳波を調べ、果たして人間にどういう影響を与えるのか研究したことがあるという話を聞いたことがあります。 一方は、経典を広げ、字を目で追い、お経の意味や内容などを考えながらお唱えするのです。 もう一方は、ただ無心にお唱えするだけです。 この実験におけるサンプル数は定かではありませんが、相当数の実験が重ねられたそうです。 その結果、お経の意味や内容などを考えながらお唱えする方より、ただ無心にお唱えするだけの方がはるかにアルファー波が高く出現するのだそうです。 言いかえれば、何も知らないで唱えている方がリラックス効果が高く、心の平安が保たれているということでした。 お経の意味や内容などを考えるということは、ある種の雑念で満たされているということなのでしょうか。 もちろん意味を理解しお経の意義を考えることは重要なことでしょう。 さらにはそのことをわかったうえで無心にお唱えすることができれば、もちろんそれに越したことはありません。 さて、仏前勤行次第だけでは唱え方が分からないと、お経を吹き込んだ録音テープがほしいという檀家さんですが、テープを差し上げてしばらくたっても一向に上手くなりません。 それもそのはずです。カセットレコーダーを仏壇の前に置いてテープをエンドレスでかけたまま、ご自分は農作業に出て行かれるんですから・・・。上手くなるはずがないです、それでは・・・。 こんなこともありました。 ある共同墓地にお参りをしたときのことです。 ある地区の町内会の人たちが、一つの墓を中心にして、お経をあげていました。 この地区では、法事をする当家が町内会に粗供養として、金一封を寄付する習慣があるのですが、そのお返しとして、町内会の人たちがお墓参りをしていたのです。 私は他の家の墓参りを終えたあと、少し立ち止まってその人たちがあげるお経の声を聞いていると、とても低い声で、ゆっくりと唱えているのです。よく見ると、みんなが囲んでいる墓石の上にはカセットレコーダーが置かれ、私が吹き込んだと思われるテープの声にあわせて唱えていたのです。 おつとめが終わったあと、みんなに、「えらい、ゆっくりお唱えしてたねぇ」というと、そのテープの持ち主と思われる人が返答しました。 「うん、電池がきれかけてんねん」 お経の録音テープもたくさんの方に差し上げてきましたが、こんな使い方ははじめてでした。 もちろんしっかりテープを聴いて、お経に慣れて上手に唱えられる方もいます。おかげで最近では法事のときにご一緒にお唱えしても、坊主よりも上手に、お唱えされる方も出てきました。 でもそこまで上手になられると、本職の私が困りますねん。 合掌
田舎坊主の七転八倒<名付けて不自由に>
11-07-2024
田舎坊主の七転八倒<名付けて不自由に>
この地方では四十九日満中陰の法事の際、四十九個の小餅と鏡餅のような丸い餅一枚でつくった「笠餅(かさもち)」とよばれるものを、弘法大師のご修行姿に似せた人型に切る風習があります。四十九個は人間の骨の数、鏡餅は骨を覆う皮と肉と言い伝えられていて、亡きがら全てを埋葬する土葬習慣のあったところでは、分骨や忌み分けの意味を持っているのです。そして、この笠餅のなかの鏡餅を、杖をもち笠をかぶった弘法大師の修行姿に切り分けます。体の部分を持ち帰って食べると、その箇所の病が治るのだと信じられているのです。足が悪い人は足を、手が悪い人は手をもって帰るということになるのですが、現世利益とはいいながら、まことに信じがたいお話です。 実を言うと、私は一度もこれを切ったことがありません。というのも、もし足の悪い人ばかりお参りに来たら、どうするのでしょう。お大師さんの足は二本だけなのです。親戚同士で取り合いになったり、自分がほしかったのに誰かさんに持って行かれたなどといやな思いをすることになるとしたら、法事に来て故人の冥福を祈り、しばらくは心穏やかに過ごすことができると思っている人にとっては、それは本末転倒ではないでしょうか。 そうならないために私はいつも次のようにお話しします。「笠餅はお大師さんの人形には切らず、来られた方の数に適当に切り分けて下さい。そしてそれぞれいただいたものをご自身の悪い部分と思い、たとえば足と思い、手と思って持って帰ってください。お大師さんの修行姿に切れば足は二本しかないので二人しか救われませんが、自分が手にしたものを手と思い足と思えば、みんなが満たされ救われるじゃないですか。これがほんとうの満足というんですよ」と。 でも最近、私が切らないことを知ってか知らずか、笠餅の切り方が書かれたものをコピーして餅屋さんがサービスでつけてくれるそうです。昔は、「餅屋は餅屋」とその仕上げの立派さを褒めて言ったものですが、こんなサービスをされては、「餅屋も餅屋だ」と言いたくなります。 私たちはものに名前をつけることによって、整理され便利にもなりますが、反対に名付けることによって不自由にもなっているんです。たとえば、最近ホームセンターなどでも売られている「ぞうきん」が、家で台所の「ふきん」になることはまずありません。「ぞうきん」という名前によって、床を拭いたりする、いわゆる下用の利用に限定されるからです。逆に「ふきん」が下用に使われることはないでしょう。でもホームセンターに陳列されている「ふきん」も「ぞうきん」も、どちらもきれいな布です。だとしたら、ただの白布を買ってくれば「ふきん」にも「ぞうきん」にもなることができるのです。 言い換えれば、名付けなければ自由で融通が利くということではないでしょうか。すべてに仏の精神が宿っていることを仏教では「悉有仏性(しつうぶっしょう)」といいます。餅の一部に名前をつけて、そのものしか価値がないように思わせるようなことがあってはならないと思うのです。手や足という価値をご自身でつけ、そう観念する方が自由でいいじゃないですか。 私は、執着することやこだわることから心を解放することが苦を「ほどく」ことであり、「ほどく」から「ほとけ」が生まれたとも教えられました。法事において名前に縛られるようなことがあっては、本来の仏の教えに合わないように思うのです。 合掌
田舎坊主の七転八倒<それほど形を整えても>
04-07-2024
田舎坊主の七転八倒<それほど形を整えても>
仏事は荘厳(しょうごん)が大切です。荘厳というのはお飾りのことです。仏壇のお祀りの仕方などはよく聞かれることですが、なかでも多いのは、荘厳について置き場所などです。 本来、仏壇にはご本尊が安置されますが、荘厳はこのご本尊のためのものでもあります。真言宗の仏壇は、どちらかといえば質素で控えめなものが多くあまり派手ではありません。 仏壇本体の材質は紫檀や黒檀などが中心で、ケヤキや桜など多種に及びます。最近では圧縮材や合成材なども使われることも多く値段もかなりの差があるようです。仏壇のなかには上部に須弥壇(しゅみだん)というご本尊の置き場所があります。 ここには真言宗のご本尊大日如来を中心にして、向かって右に弘法大師、向かって左に不動明王が置かれます。これはそれぞれのお姿を描いた掛け軸だけの場合もあります。 須弥壇の前には幡(ばん)という布で作った幡(はた)や瓔珞(ようらく)とよばれる飾り金具や電球入りの灯籠などが仏壇の天井からつり下げられます。須弥壇の足下には高杯(こうはい:たかつきのこと)が左右一対置かれ、果物やお菓子などが供えられます。 下の段にいくと、お仏飯やお茶湯を置く台と五具足(ごぐそく:ローソク立て一対、花立て一対、香炉一つ)や三具足(みつぐそく:ローソク立て、花立て、香炉)という荘厳が置かれます。そのほかにも過去帳台や経机、おりんなどがあります。通常は下の段にいくまでの中段あたりに、仏壇の大きさによって違いますが一段から二段を利用して、ご先祖のお位牌が置かれています。ただこれはあくまでも便宜上置かせてもらっているだけで、正式な置き場所というわけではありません。 余談ですが、私がいつもこの話をすると仏壇屋さんから「それだけは言わないでください。売れ行きが悪くなるんです」と、釘を刺されてしまいます。 ちなみにこの田舎寺の檀家さんのなかには、かつては茅葺きの旧家があり、そのお宅のなかには今でも昔ながらの祀り方をしている家があります。現在では屋根は瓦葺きに代わったものの座敷などはそのままで、今も上座敷には一段高い上段の間があります。その上段の間には備え付けの仏壇があり、そこにご本尊を安置しているのです。 ご先祖のお位牌はどこにあるかというとご本尊を正面にして、下の間の右側に小さな位牌置き場の段があります。この旧家には数十体のお位牌があり、このお位牌たちはご本尊に向かうように少し斜めに置かれています。 これはとりもなおさず、私たちが亡くなって仏になるとはいいながら、決して弘法大師やましてや大日如来や不動明王になるわけではないからです。ですから、ご本尊と同じ場所に祀られることはあまりにももったいなく、失礼であるという意味から下の間の別の場所に祀られ、そこからご本尊を拝めるようにつくられたのです。 このように、本来仏壇はご本尊だけをお祀りするものだったのです。もともと祀られる場所がない仏壇のなかの位牌の置き場所について、先祖代々の位牌や新仏の位牌の場所はどこがいいのか、よく聞かれ、正直、困りものです。ですから私は「あまり決まりはないので、適当なところに置かれたらいいですよ。まあ新しいご先祖でしたら正面において丁寧にお祀りになったらどうですか」と、話すことにしています。 しかし、どこで聞いてくるのか、「夫婦や古い位牌や先祖代々などみな場所が決まっていて順番があるって言われた」と言いだし、そのどこかの人に言われたことをきっちり守って置き直している方もいます。 たしかに仏事に関して「わるい」と言われれば、そのことはしないようにするのはよくわかります。しかし「どうわるいのか」の理由がないのです。あるとすれば「ばちが当たる」ということでしょうか。 でもご自分のご先祖がその置き場所のことで、果たして家を守っている子孫にばちを当てるでしょうか。それよりも、ご命日には心込めて新しい花や故人の好物だったものを供え、しずかに般若心経をお唱えし、感謝の気持ちで手を合わせることのほうが大切だと思うのですが・・・。 仏壇のなかの位牌だけに限らず、仏壇の材質や墓石、法事についても事細かくその理由と根拠を確認し、祀り方などを聞かれる方がおります。しかし私の経験では、こういうことにこだわる方の家ほど、ろうそく立てや線香立てにほこりがかぶっていることが多いのは、いったいどういうことなのでしょうか。 合掌
田舎坊主の七転八倒<坊主より詳しい?>
27-06-2024
田舎坊主の七転八倒<坊主より詳しい?>
仏事に関しては各宗派に違いがあります。 さらには同じ宗派でも地域によっても違いがあります。 これは仏事がそれぞれの地域の特色や歴代の住職の考え方などが大きく影響し、文化の一部として慣習化したものが少なくないからでしょう。 たとえば同じ宗派であっても、かつては土葬と火葬が共存していたため、それぞれの葬送の仕方を受け入れないところがありました。 土葬埋葬は亡きがらを捨てるようで、しかもその上に重い土をかけるのがかわいそうだといい、一方は火葬は熱そうだからいやだといいます。 また、葬式を済ませて中陰の間は仏壇を閉じるところと、開けたままにしておくところがあります。 当田舎寺では仏壇を閉めないようにお話ししています。 しかし親類縁者から閉めるようにいわれることが多いのか、この件についてはよく聞かれることでもあります。 仏壇は本来ご本尊を安置するものです。 ですからご本尊の安置されていない仏壇はあくまでもご先祖の位牌置き場ということになります。 もともと仏壇を家に置くようになったのは、ご先祖供養のためわざわざお寺へ行かなくてもいいように、いわばミニお寺を家の中に置く感覚で普及してきたと考えられます。 そのなかに方便としてご先祖の位牌を同居させているのが現在の仏壇のありようなのです。 その証拠に仏壇をよく見ると実際には位牌置き場というところはありません。 本尊を安置している須弥壇という高台に至る階段模様の段々上に位牌を置いているのが現状なのです。 あくまでも仏壇の主人はご本尊なのです。 特別に壇をしつらえお祀りされるのは、亡くなって間もないご先祖の魂が、名残なく迷うことなく黄泉の国へ旅立ってほしいと願い、大切なご本尊に手を合わせ、護られ、導かれたいと思うからであります。 にもかかわらず、ご本尊のいます仏壇が閉じられていたのでは、祈念が通じないのではないかと思うのです。 ですから私は中陰の間も仏壇を開けておくようにお話しします。 私の暮らす地域は二十数年前までは土葬が中心でした。 その後、多くの反対意見も出るなか、近くに火葬場もできたので、それからはすべて火葬に替わりました。 火葬の始まりは、2500年前、お釈迦さまはインド北部クシナガラで生涯を終え荼毘に付されたところからです。 火葬にされたお骨は世界七カ国に分骨され、それぞれガラス製の骨壺に納められ、それをお祀りする場所として仏舎利塔が建てられました。 これがストゥーパとよばれ、漢訳され現在の「卒塔婆」になったのです。 お骨になったということは、すべてが自然に還ったことであります。 すべてが自然に還った燃え残りとしてのお骨でさえ、あまりにも偉大なお釈迦さまのものであればこそ、貴重なガラスの器に入れ、これを礼拝する対象としたのです。 弘法大師ご入定のあと高野山を真言宗の根本霊場として完成させた真然大徳の御廟が修復された平成二年、、瑠璃色に焼かれた骨壺がそのまま掘り出されました。 このことは全国紙にもカラーで報道されました。 その骨壺はそのまま真然大徳の御遠忌で落慶された御廟に再び納められました。 このようにこういった方々の骨壺はとても大切に扱われるものであることは言うまでもありません。 しかし庶民の埋葬意識は少し違っていて、火葬してからもお骨を土に還すという観念で納骨される方がたくさんおられます。 埋葬文化は「土に還る」を第一義とされていますので、骨壺に入ったままでは土に還れず成仏できないと思うのでしょう。そういう方々は骨壺を割りお骨を直接土にまく必要があると考えているのです。 あるお宅の納骨供養の際、その親戚の長老らしき方が采配しだしました。 「おい、骨壺からお骨を出して、その穴へ撒いて・・・」 「壺を細かく割って、深いところに埋めて・・・」  私が口を挟むまもなく納骨は進んでいきました。 「そのまえに、写経した用紙はあるか?」 「それはお骨の下に敷くんや」 「よっしゃあ、それでええわ」 写経用紙の取り扱いまで指導したところで、 「次は土をかけるんや、一鍬ずつでええで」 と、参列者を順番に名指ししながら最後まで取り仕切ってくれました。 その方が納骨に詳しいことは間違いないのですが、骨壺を割る必要がないことを話す暇も田舎坊主にはありませんでした。 それで安心が得られるのでしたら、またそれも善き哉。 合掌
田舎坊主の七転八倒<法事のご本尊は?>
20-06-2024
田舎坊主の七転八倒<法事のご本尊は?>
法事とは亡き人のご供養をすることです。 葬式のあと初七日から満中陰までの七回と、百日忌、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、三十七回忌、五十回忌とあります。 すべてを勤めるとして五十回忌まで20回の法事をすることになります(二十五回忌、四十三回忌、四十七回忌を加えて23回とするところもあります)。 明治初めころまで庶民は字が読めずお経をあげることができなかったため、その都度、お寺の本堂で僧侶にお経をあげてもらっていました。追善供養したいという風習により、やがて各家に仏壇が祀られるようになって自宅で法事をするようになったのでしょう。 仏壇の前で法事を勤めることもありますが、この辺りの田舎ではほとんど仏壇から位牌を取り出します。そして床の間にあらたに座敷机などで祭壇をもうけて法事をします。 祭壇の上には正面に位牌を置き、花瓶、線香立て、花立て、ロウソク立てなどを並べます。果物やお菓子、季節の花や故人の好物だった品々もたくさん供えられます。 法事とは本来、亡くなって自らお経をあげることができなくなったご先祖さまに代わって僧侶を招き、遺族とともに、本尊にお経をあげ功徳を積むことなのです。 「追善」という言葉も、「善き功徳の追加」であって、法事同様、亡くなって功徳を積むことができなくなったご先祖に代わり、親類縁者が一堂に会して、最も功徳があるとされる読経をご本尊にお供えすることなのです。 ですから、一番大事なことは仏壇の中の本尊やまたは本尊に代わる掛け軸を、祭壇の正面の奥に安置することなのです。 当寺の法事では仏前勤行次第の冊子を渡し、一緒に経をお唱えするようにすすめますが、参加者が声をそろえてお唱えしてくれたときなどは、 「今日のご先祖さまが皆さんの後ろの末席にいて『みんなで拝んでくれてありがとう。わたしの代わりに拝んでくれてありがとう』と、お礼を言ってると思いますよ」と、私は話します。 要するに、あくまでもメインは当家のご本尊なのです。 しかしほとんどの家では位牌がメインのように中心、正面に置かれています。ご本尊は二の次のようになってしまっているのです。その上、床の間の置物がそのまま置かれていて、本尊代わりのようになっていることも多いのです。 その置物が、あるときは鷹の剥製だったり、鮭をくわえた熊だったり、あるときは徳利をもったタヌキがヘソを出して立っていたりすることもありました。 私は同じタヌキでも、楊子(ようじ)をくわえた紋次郎タヌキ(昭和47年からテレビ放映された「木枯らし紋次郎」を真似た置物)にもお経をあげたこともあります。 合掌
田舎坊主の七転八倒<後ろがうるさい>
13-06-2024
田舎坊主の七転八倒<後ろがうるさい>
法事に必要な時間は約1時間です。 その内訳はおおよそ読経が25分から30分、法話が10分、そのあとお墓参りをして終了となります。 読経の最後には、般若心経や諸真言など法事に来られる年齢の方々なら比較的なじんでおられるお経を中心に「仏前勤行次第」という手づくりの小冊子を配って、みんなでお唱えします。 こんな方法にしたのは、昭和52年ころ法事にお参りして読経をしているときのことがきっかけでした。 当時は、法事に招かれる親類縁者のほとんどがミカン農家でした。 その人たちがそれぞれ農作業の進み具合や消毒、摘果、実のなり具合などを、法事最中、小声ではあるのですが真剣に話し出して、うるさいのです。 坊主の後ろに座ってただ訳の分からないお経を聞いているのが、ある意味苦痛だったのでしょう。 あるいは小坊主に遠慮は無用でお経の最中であろうとそれほど失礼とは思われなかったのだと思います。 私が至らないことも大きな原因ですが、とにかくうるさいのです。 そこでお経の最中の口封じのため考えたのが、昔ですから、鉄筆を使ったガリ版印刷で「仏前勤行次第」をつくり、みんなで一緒にお唱えすることだったのです。 お経の後半で「ご一緒にお唱えください」と声かけをし、参列者全員で読経唱和を始めたところ、まずまず評判よく受け入れられました。しかも案外効果は早く出てきて、それ以来、読経中の会話は全くといっていいほどなくなりました。 ところが困ったことも起きてきました。それは「仏前勤行次第」の冊子をほしいという人が増えてきたのです。 しかしなんといっても当時はコピー機もワープロもましてやパソコンもありません。鉄筆で油紙に手書きし、インクを染みこませたロールを一回一回、押し転がしながら刷り上げ、一冊ずつ製本するのですから、増刷が大変なことはいうまでもありません。 当初はお断りをし、お貸しするだけにしていたのですが、なぜか法事のたびに冊数が減っていくのです。 そうです。内緒で持って帰られるのです。 そこで思いついたのが冊子ではなくB4用紙一枚に「仏前勤行次第」すべてを書き込んだものをつくり、ほしい方にはそちらを差し上げることにしたのです。 しかしそれでも、 「冊子本の方が字が大きいから見やすいので、それがほしい」と、いいだす人もありました。 そんなこともあったので、さらに思い切って、約400部つくって檀家皆さまに一冊ずつ差し上げることにしたのです。 私は法事の時、よく言うことがあります。 それは「寺から里へ」ということです。 かつては、農家でとれた野菜やミカンなどをお寺へもっていくのはごく普通のことで当たり前のような行為でした。ですから「里から寺へ」は当たり前のことと言えます。 反対に、お寺のお供え物やいただきものなどを檀家さんに配るようなことはまずありません。 ですから「寺から里へ」という言葉は「めったにない」という意味をもっています。 しかしこの田舎寺では「仏前勤行次第」を無料で差し上げます。 「寺から里へを実践する、めったにないお寺なんですよ」と、もったいぶって差し上げるんです。 合掌
田舎坊主の七転八倒<飲みすぎました>
06-06-2024
田舎坊主の七転八倒<飲みすぎました>
法事などで僧侶に出す食事のことを「斎(とき)」といいます。 平成に変わるまでは、本膳・二の膳が一般的で三の膳がつくところもありました。 このうち三の膳は家で待ってる家族のためのものと聞いたことがありますが、現在ではもっぱら幕の内が主流となっています。 お釈迦さまの時代から僧侶に食事を提供することはとても大きな功徳があるとされてきました。 「斎」について、お盆の行事が始まりとされます。 古来インドでは、4月15日から7月15日の雨期の間、僧侶は外出を禁じられ、合同で室内で修行する安居(あんご)という期間がありました。 その安居が明ければ「僧侶たちに斎を施し、供養しなさい」とすすめられたことが斎を施すはじまりであり、お盆の起源となったとあります。 * また、こんな逸話があります。 お釈迦さまの弟子であるモッガラーナ(目連)が、餓鬼道というつらい地獄の一つに落ちた母を救うため、その方法をお釈迦さまに聞きました。そもそも、モッガラーナ(目連)の母が餓鬼道に落ちた理由は、他を愛することがなかったからです。 子どもであるモッガラーナ(目連)はなによりも大切に、あふれるほどの愛情をもって育ててきたけれど、母は他の子どもや人には目もくれず、それらを大切にし愛する心がなかったため、餓鬼道に落ちたのです。 そのため、他を思う心を持つ実践として、人々の幸せや平安を願う修行をしている僧侶たちに食事を提供することがとても大切なことだとモッガラーナ(目連)はお釈迦さまに諭されたのです。 そしてこのことがお盆の行事である「お施餓鬼」として、自分の先祖や縁故だけをお祀りするのではなく「三界萬霊抜苦与楽」と書かれた、自分と縁のない仏さまにも水を手向けるお盆の習慣ができたのでしょう。 * また、お寺の護寺運営の費用としてほとんどの寺院が檀家さんから「斎米(ときまい)」と称する志納金をいただいています。 昔は春と秋に麦や米などでお寺に納められていましたが、今ではほとんどお金で納められます。 お寺の護持運営といいながら、かつては専業坊主では食べていけなかったため、これが基本給みたいなもので、坊主の食いぶちだったようです。 ちなみに私の田舎寺では現在、年間2500円の斎米料をいただいていますが、光熱費や本堂のお供え物、修繕費などまさに護寺管理費に消えてしまいます。いじましい話しですが、当時の斎米料は1000円だったため、法事での斎には助けられたものです。 * 今ではこの田舎でも専業農家は少なくなり、法事に集まる人は勤め人が多く、法事も土・日曜日や休日で、平日に法事をおこなう家はほとんどありません。そのため休日に法事が重なり、どうしても食事に同席することができなくなり、お布施とは別にお膳料を包んでくれる家が多くなりました。 アメリカ向けのミカン栽培が最盛期だった昭和五十年ころは、農家は専業で勤め人も少なく、檀家のほとんどが農家の人たちで、休日平日を問わず法事をしてくれたので必ずと言っていいほど法事のあとの食事、斎をいただくことが多かったのです。 * そんなある日の法事でいつものとおり上座に座り、当家の親戚の人たちと杯を交わしているうち、 「なかなか若はんは、いける口やなあ。やっぱり親院家はんの子やなあ」などとおだてられ、若気の至りとでもいうべきか、へべれけに酔ってしまいました。あげくのはてには、当家の方3人ぐらいで寺まで送ってもらわなければならないほど酔ってしまったのです。 寺に帰ってきて、驚いたのは母親です。送ってくれた人に「申し訳ございません」と平身低頭するとともに、酔ってただただ笑い続けている私を裏の井戸の前に引きずっていき、裸にさせたうえ何杯もの水をぶっかけました。 それでも笑い続ける私に、「法事で酔っぱらうにもほどがある!」と、かなしかなり怒っていたのを覚えています。もちろん覚えているのは水をかけられてから後のことです。 こんどは母を怒らせてしまいました。 私が母に怒られたのは、人生でこのとき一度だけでした。 このことがあってから毎年、大晦日の除夜の鐘が鳴り終わった時間にこの井戸の若水で水行をするようになりました。 しかし15年ほどたった秋口に、母は、「冷水をかぶる姿を見るのがつらい」と、井戸の溜め桶を業者に頼んで壊してしまいました。 水をかぶる後ろでいつも手を合わせ、見守ってくれていた優しく厳しい母心に、私は十五年目にして始めて気づいたのです。 合掌
田舎坊主の七転八倒<塔婆が逆>
30-05-2024
田舎坊主の七転八倒<塔婆が逆>
法事には塔婆がつきものです。塔婆、正式には卒塔婆です。 当地ではこの塔婆、亡くなられた方の戒名を書いたものと、施主当家の先祖代々の菩提供養を書いたものの二本が基本的なもので、法事のご先祖が複数霊あればそのぶん塔婆の本数が増えることになります。 塔婆はおうちで読経を済ませたあとみんなで墓参りの際に持参し、墓石の後ろか塔婆立てにさし、故人の供養をするものです。 現在ではこの塔婆、お寺が用意し、法事の依頼があれば前もって書いておいて法事当日に持参するのですが、私が小坊主の頃は、田舎といえども小さな雑貨店があって、そこで当家が必要な本数の塔婆を買い求め、床の間にしつらえられた祭壇の横に墨汁の入った硯とともにその当家が準備していました。 来客が正座し、その衆人環視のなか、法事が始まる前、おもむろに幅7センチ長さ90センチの塔婆を左手で持ち、右手に墨を含ませた筆を持ってサラサラ、サラと格好良く梵字から始まって戒名を書くのですが・・・。 そんなふうにうまくいけばいいのですが、そもそも世間一般には「坊主は字が上手」と間違った(?)常識が流布しているなかで、愚僧は字が汚いことこの上なく、苦手なのです。 しかも法事にひとりでいきはじめてまもなくの頃です。法事のお客さま全員の目が一点筆先に集中するのですから、緊張するのなんのって・・・・。 しかし、ここで逃げることもできないため、取りあえず、祭壇の位牌を見ながらやっとのことで2本の塔婆を書き終えました。 ところが、どうも塔婆の姿がおかしいのです。 立てて祭壇に並べてみると・・・・上下逆なのです。 昭和48年ごろの塔婆は現在のように梵字の部分が五輪塔のような切り込みがなく、上部が緩やかな三角に面取りされ、足下は土中に差し込むために鋭く矢先のように切り込まれています。 それでも本来なら間違うことはないのですが、あまりの緊張にそのときは足もと部分から梵字を書きはじめてしまったようです。 祭壇に立ててすぐ気づいたので、 「申し訳ないです。塔婆を天地逆に書いてしまいました」と話したところ、 「いやあ、べつに分からへんからいいですよ」と、はっきり上下逆と分かるにもかかわらず、施主さんはいやな顔一つせず優しく了解してくれました。   何十年も前の昔のことなのに、そのときのことは今でもはっきり記憶に残っています。 そしてそのとき、人の間違いを、あるときには優しく受け入れ、包み込むことの大切さを学んだように思いますが、いまだに私自身実行できているか大いに疑問に思うこの頃であります。 合掌
田舎坊主の七転八倒<天井がまるでお肉>
23-05-2024
田舎坊主の七転八倒<天井がまるでお肉>
檀家さんにとって私のような小坊主でも、寺の跡継ぎができた安心感やもの珍しさもあり、法事も新鮮な感じがするとかで、案外歓迎されているように思います。 しかし法事の後、「斎(とき)」とよばれる食事の席につきますが、食事をいただいていて皆さんだんだんお酒が回ってると、法衣を着て上座に座っている坊主であっても、参列者から 「今の若いもんは・・・」という話になることがたびたびあります。 昭和50年ごろ、法事に来る大人の人たちは、戦中戦後の食糧難の時代を乗り越えた人ばかりで、小学校の校庭にまでサツマイモを植えてそれを主食とした世代です。 しかしイモだけでは足らずイモの蔓まで食料にしたという飢えた時代を体験した人の、食べ物に限らず、なによりも物の大切さを話す言葉には大きな説得力がありました。 それに比べて、私は高野山の宿坊で小坊主時代を過ごし、ご馳走と呼べるものは食べられていなかったとはいえ、白いご飯だけはタップリあったし、おかずはなくても空腹になることはありませんでした。 ですからほんとうの空腹やひもじさというものを感じたことがないのです。 そんな私がひもじく辛い時代を生きてきた人たちよりも上座に座り、法衣を着て法事を勤めるためには、せめてほんとうの空腹感を経験する必要があると思い始めました。 そこで断食です。 私がお世話になった断食道場には、多くの人が内臓の調子を整えるために来られていました。 そこでは最長の断食期間が一ヶ月で、そのうち本断食とよばれる絶食期間は一週間と決まっています。 しかし私はこれを修行と思い、どんなことが起こっても自分が責任をとるということで、無理にお願いして本断食を二週間にさせてもらうことになりました。 これで、はじめの一週間が減食期間、次の二週間が本断食、残りの一週間が復食期間と決まりました。 本断食中には夜、布団に入ると空腹にさいなまれ、部屋の天然木の天井板がまるでお肉が並んでいるように見えるといった妄想にかられました。 ようやく本断食が終わり、減食開始から22日目に復食が始まりました。久しぶりに食べものを口にすることができる日が来たのです。 食べものといっても一日二杯のおも湯です。 ところが、このただのお粥の汁のようなおも湯が、なんと美味しいこと!美味しいこと! 涙が出るほど、おいしいのです。 このときに思いました。 おなかが空っぽだったからこそ、おも湯に豊かで深い味わいを感じることができたのだと。 そして足らないことを経験してみないと、豊かなものを感じることができないのだと、そのときつくづく思い知らされました。 この断食を終えて家に帰ったとき、一ヶ月で10キロ近くやせた私を迎えてくれた母が、「痩せてかわいそうに」と、号泣するのです。 はじめて母を泣かせてしまいました。 思い出の断食道場は先日の火事で焼け落ちてしまいました。 合掌